🟦 シリーズ1(内面)
心の中で何かが動き出す瞬間を描くシリーズ。
🟦 第1話|始まりのスケッチ

昼下がりの、静かな部屋。
カーテンの隙間から入る光だけが、部屋の輪郭をぼんやり浮かせていた。
最低限の仕事だけして、あとは何もしたくない。
仕事には行っているのに、感覚としてはほとんど動いていないのと同じだった。
やりたいことがないわけじゃない。
ただ、やれる気がどこにもなかった。
周りは少しずつ先に進んでいる気がするのに、
俺だけが取り残されているような感覚。
「今から何かしたって遅いだろ」
そんな諦めと、
「でも本当は、まだ終わりたくない」
という気持ちが、胸の奥でずっとぶつかり合っていた。
ベッドに転がったまま、スマホの写真フォルダを眺めていると、
ふいに、昔飼っていた猫の写真が目に留まった。
寝ていたり、歩いていたり、
こちらをじっと見つめて止まっていたり。
ただの日常の写真。
なのに、その日は妙に引っかかった。
「……なんだよ急に」
そう思いながらも、
なぜかその写真から目が離れなかった。
気づけば体が勝手に動いていた。
部屋の隅に放置してあったスケッチブックを手に取る。
描きたい、というほどの気持ちはない。
ただ、このまま何もしないでいるのが、やたら苦しかった。
ページを開くと、真っ白な紙。
意味なんてないのは分かっている。
猫の絵を描いたところで、何かが変わるわけでもない。
鉛筆を握る手が、少しだけ震えた。
「いやいや、何やってんだよ俺。
猫の絵なんて描いたって意味ないだろ。
もうそんな歳じゃないだろ」
自分で自分を止める癖が、いつものように顔を出す。
それでも、線を引いた。
輪郭。
耳の角度。
目の位置。
鼻と口、ヒゲの流れ。
写真を逆さにしたり、横にしたりしながら、
「こんな形だったっけ」
と、記憶を手探りでたどっていく。
描いているあいだだけは、
頭の中のざわつきが、少し遠のいた。
鉛筆が紙をこする音だけが、静かに響く。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
久しぶりに、時間が消える感覚になっていた。

最後の線を引いた瞬間──
胸の奥で、何かが小さく「コトッ」と動いた。
この感覚は、今の俺のものじゃない気がした。
視界の端で、何かが揺れた。
ん?
ページをめくったわけでもない。
風も吹いていない。
「……は?」
心臓が、変な跳ね方をした。
スケッチブックの上で、
描いたばかりの猫が、ゆっくりと体を起こしていた。
息が詰まる。
背中が一気に熱くなる。
頭が理解を拒否しているのが分かる。
それでも、目は逸らせなかった。
猫は当然のように俺を見て、
前からそこにいたみたいな声で、ぽつりと言った。
「やっと描いたな」
???
今、目の前で何が起きたのか、
はっきり言って意味が分からない。
幻覚なのか、疲れているだけなのか、
頭の中でいくつも言い訳が浮かぶ。
でも、どれもしっくりこなかった。
ただ、感じる。
気づけば毎日、同じように過ごしていて、
いつの間にか感じなくなっていた、あの感覚を。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
長いあいだ感じられなかった“ワクワク”が、
静かに、でも確かに動き始めた。
▶ 第2話(不安)へつづく
次回は、主人公が避け続けてきた“人生の不安”と向き合う話。
あの猫との最初の対話が始まる。


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