第3話|飲み込んだ言葉

カンジョー通帳

ペンを握ったまま、
しばらく動けなかった。
スケッチブックの上には、
途中で止まった線。
ほんの少し伸ばせばいいだけなのに、
その“ほんの少し”が遠かった。
「……何やってんだ。」
小さくつぶやいた瞬間、
ポケットの中でスマホが震えた。
画面を見る。
「ちょっと手伝ってもらっていい?」
仕事で関わりのある相手からだった。
そこまで重要でもない。
断ろうと思えば、断れた。
でも──
親指が、勝手に動く。
「いいよ」
打ち込んだところで、
一瞬だけ、止まった。
画面の文字と、
スケッチブックの途中の線が、
同時に視界に入る。
そのとき、
ふっと本音がよぎった。
俺は、人の頼まれごとよりも、
今の自分の状況に向き合いたかった。
ほんとは──
周りのことなんて、どうでもよかった。
「……」
でも、そのまま送信した。
押した瞬間、
指先がじん、とした。
すぐに既読がつく。
間。
返信は来ない。
数秒。
いや、もっと長く感じる。
画面を見たまま、
動けない。
「……はあ。」
小さく息を吐く。
そのとき、
胸の奥に、じわっとした重さが広がった。
——また、やったな。
はっきり聞こえた。
「……」
何も言えない。
断ろうと思えば、断れた。
「今は無理」と言えば、それで済んだ。
でも、それが言えなかった。
空気が変わるのが嫌だった。
面倒になるのが嫌だった。
嫌われるのが怖かった。
それだけだった。
「……ダサ。」
口から出た声は、思ったより小さかった。
ペンを握る手に力が入る。
でも、動かない。
スケッチブックを見る。
途中の線。
さっきまで気になっていたはずなのに、
今はそれどころじゃなかった。
——お前、ずっとこれだよな。
また、来る。
——自分のこと後回しにして、
 あとで文句だけ言うやつ。
「……うるせぇ。」
思わず口に出る。
でも、声に力が入らない。
否定したいのに、
完全には否定できない。
事実だからだ。
スマホが、もう一度震えた。
反射的に見る。
「ありがとう、助かる」
それだけだった。
たった一言。
でも、その一言が、
やけに遠く感じた。
「……ああ。」
適当に返して、画面を閉じる。
部屋が静かになる。
さっきよりも、静かだった。
でも、落ち着かない。
スケッチブックに視線を戻す。
途中の線。
“止まってる”のは、
線じゃない。
「……俺か。」
小さくつぶやく。
そのまま、しばらく動けなかった。
横を見る。
猫がいた。
何も言わない。
ただ、じっと見ている。
その視線が、
逃げ場をなくしてくる感じがした。

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