ある男がいた。
仕事をして、電車に乗って、家に帰る。
腹が立つ日もあった。
嬉しい日もあった。
どうしようもなく迷う日もあった。
「俺、このままでいいのかな」
そんなことを考えながら眠り、
また次の日が始まった。
ある夜。
男の目の前に、二つの扉が現れた。
片方には、
「カンジョー箱がない世界」
もう片方には、
「カンジョー箱がある世界」
と書かれていた。
男は二つの扉を、交互に見た。
まず、
「カンジョー箱がない世界」を覗いた。
そこにも、自分がいた。
働いていた。
人と出会っていた。
笑っていた。
腹も立てていた。
何かに挑戦して、
失敗もしていた。
ちゃんと生きていた。
ただ――
一日が終わるたびに、
その日の出来事が、
少しずつ後ろへ流れていった。
「あんなこともあったな」
それも、いつしか忘れていった。
男は呟いた。
「悪くない人生だな」
でも、なぜか少しだけ寂しかった。

男はもう一つの扉を開けた。
そこにも、同じ自分がいた。
同じように働いて、
同じように迷って、
同じように腹を立てていた。
ところが、帰り道。
その男が突然笑った。
「……これ、物語にできるな」
ポケットから、小さな箱を取り出した。
今日の悔しさを入れた。
昨日の欲望も入れた。
言えなかった言葉も入れた。
やってみたいことも入れた。
すると箱の中で、
でっさんが騒ぎ、
まるとばつが言い争い、
ほしいが飛び出し、
いらなが何かを捨てた。
男は笑った。
そして夜、
ひとつの物語を作った。

時間が流れた。
箱のない男にも、
箱のある男にも、
同じように何年もの人生があった。
ところがある日、
箱のある男が振り返ると、
後ろに、とんでもないものができていた。
何十、何百という物語。
変なキャラクターたち。
笑った日。
逃げた日。
挑戦した日。
何者でもなかった日。
全部、残っていた。
しかも、ときどき遠くから、
「この物語、好きです」
という声まで聞こえてきた。
男は驚いた。
「俺が生きてただけなのに」
箱の中から声がした。
「違うよ」
「生きたものを、捨てなかったんだよ」

やがて男は、
自分の物語を本にしてみた。
何かを作って売ってみた。
誰かと一緒に仕事をしてみた。
盛大に失敗した。
また作った。
今度は少し売れた。
知らない人から連絡が来た。
新しい人と出会った。
そしてまた、
人生で新しいことが起きた。
男はそれを持って帰って、
また箱へ放り込んだ。
人生から物語が生まれ、
物語から人と出会い、
人との出会いから、
また新しい人生が始まった。
いつからか男には、
どちらが現実で、
どちらが物語なのか、
よく分からなくなっていた。

ずっと先。
男は、最初に作った物語を見つけた。
絵は今より荒かった。
文章も不器用だった。
整理もされていなかった。
男は笑った。
「適当だなあ」
でも、
そのページだけは消せなかった。
そこには、
まだ何者でもなかった自分がいた。
何になるのかも分からず、
ただ、
「なんか面白いことにならないかな」
と思っていた自分がいた。
男は後ろを振り返った。
そこには、
仕事も、
仲間も、
失敗も、
身体についた傷も、
作ったものも、
笑った夜も、
まだ名前のついていない次の挑戦もあった。
そして足元には、
あの日と同じ、
小さなカンジョー箱。
男は箱を拾った。
「さて」
箱を開ける。
「次は、何を入れようか」
遠くに、
また二つの扉が現れた。
どちらにも、
何も書かれていなかった。
男は少し笑って、
面白そうな方へ歩いていった。




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