昼下がりの、静かな部屋。
カーテンの隙間から入る光だけが、部屋の輪郭をぼんやり浮かせていた。
最低限の仕事だけして、あとは何もしたくない。
仕事には行っているのに、感覚としてはほとんど動いていないのと同じだった。
やりたいことがないわけじゃない。
ただ、やれる気がどこにもなかった。
周りは少しずつ先に進んでいる気がするのに、
俺だけが取り残されているような感覚。
「今から何かしたって遅いだろ」
そんな諦めと、
「でも本当は、まだ終わりたくない」
という気持ちが、胸の奥でずっとぶつかり合っていた。
ベッドに転がったまま、スマホの写真フォルダを眺めていると、
ふいに、昔飼っていた猫の写真が目に留まった。
気持ち良さうに身体を丸めて寝ている。
ただの日常の写真。
なのに、その日は妙に引っかかった。
「……なんだよ急に」
そう思いながらも、
なぜかその写真から目が離れなかった。

気づけば体が勝手に動いていた。
部屋の隅に放置してあったスケッチブックを手に取る。
描きたい、というほどの気持ちはない。
ただ、このまま何もしないでいるのが、やたら苦しかった。
ページを開くと、真っ白な紙。
意味なんてないのは分かっている。
猫の絵を描いたところで、何かが変わるわけでもない。
鉛筆を握る手が、少しだけ震えた。
「いやいや、何やってんだよ俺。
猫の絵なんて描いたって意味ないだろ。
もうそんな歳じゃないだろ」
自分で自分を止める癖が、いつものように顔を出す。
それでも、線を引いた。

輪郭。
耳の角度。
目の位置。
鼻と口、ヒゲの流れ。
写真を逆さにしたり、横にしたりしながら、
「こんな形だったっけ」
と、記憶を手探りでたどっていく。
描いているあいだだけは、
頭の中のざわつきが、少し遠のいた。
鉛筆が紙をこする音だけが、静かに響く。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
久しぶりに、時間が消える感覚になっていた。
最後の線を引いた瞬間──
胸の奥で、何かが小さく「コトッ」と動いた。
この感覚は、今の俺のものじゃない気がした。
視界の端で、何かが揺れた。
ん?
ページをめくったわけでもない。
風も吹いていない。
「……は?」
心臓が、変な跳ね方をした。
スケッチブックの上で、
描いたばかりの猫が、ゆっくりと体を起こしていた。

息が詰まる。
背中が一気に熱くなる。
頭が理解を拒否しているのが分かる。
それでも、目は逸らせなかった。
猫は当然のように俺を見て、
前からそこにいたみたいな声で、ぽつりと言った。
「やっと描いたな」
???
今、目の前で何が起きたのか、
はっきり言って意味が分からない。
幻覚なのか、疲れているだけなのか、
頭の中でいくつも言い訳が浮かぶ。
でも、どれもしっくりこなかった。
ただ、感じる。
気づけば毎日、同じように過ごしていて、
いつの間にか感じなくなっていた、あの感覚を。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
長いあいだ感じられなかった“ワクワク”が、
静かに、でも確かに動き始めた。


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