カンジョー箱がある世界、ない世界

シリーズ4(ファンタジー)

ある男がいた。
仕事をして、電車に乗って、家に帰る。
腹が立つ日もあった。
嬉しい日もあった。
どうしようもなく迷う日もあった。
「俺、このままでいいのかな」
そんなことを考えながら眠り、
また次の日が始まった。
ある夜。
男の目の前に、二つの扉が現れた。
片方には、
「カンジョー箱がない世界」
もう片方には、
「カンジョー箱がある世界」
と書かれていた。
男は二つの扉を、交互に見た。

まず、
「カンジョー箱がない世界」を覗いた。
そこにも、自分がいた。
働いていた。
人と出会っていた。
笑っていた。
腹も立てていた。
何かに挑戦して、
失敗もしていた。
ちゃんと生きていた。
ただ――
一日が終わるたびに、
その日の出来事が、
少しずつ後ろへ流れていった。
「あんなこともあったな」
それも、いつしか忘れていった。
男は呟いた。
「悪くない人生だな」
でも、なぜか少しだけ寂しかった。


男はもう一つの扉を開けた。
そこにも、同じ自分がいた。
同じように働いて、
同じように迷って、
同じように腹を立てていた。
ところが、帰り道。
その男が突然笑った。
「……これ、物語にできるな」
ポケットから、小さな箱を取り出した。
今日の悔しさを入れた。
昨日の欲望も入れた。
言えなかった言葉も入れた。
やってみたいことも入れた。
すると箱の中で、
でっさんが騒ぎ、
まるとばつが言い争い、
ほしいが飛び出し、
いらなが何かを捨てた。
男は笑った。
そして夜、
ひとつの物語を作った。


時間が流れた。
箱のない男にも、
箱のある男にも、
同じように何年もの人生があった。
ところがある日、
箱のある男が振り返ると、
後ろに、とんでもないものができていた。
何十、何百という物語。
変なキャラクターたち。
笑った日。
逃げた日。
挑戦した日。
何者でもなかった日。
全部、残っていた。
しかも、ときどき遠くから、
「この物語、好きです」
という声まで聞こえてきた。
男は驚いた。
「俺が生きてただけなのに」
箱の中から声がした。
「違うよ」
「生きたものを、捨てなかったんだよ」


やがて男は、
自分の物語を本にしてみた。
何かを作って売ってみた。
誰かと一緒に仕事をしてみた。
盛大に失敗した。
また作った。
今度は少し売れた。
知らない人から連絡が来た。
新しい人と出会った。
そしてまた、
人生で新しいことが起きた。
男はそれを持って帰って、
また箱へ放り込んだ。
人生から物語が生まれ、
物語から人と出会い、
人との出会いから、
また新しい人生が始まった。
いつからか男には、
どちらが現実で、
どちらが物語なのか、
よく分からなくなっていた。


ずっと先。
男は、最初に作った物語を見つけた。
絵は今より荒かった。
文章も不器用だった。
整理もされていなかった。
男は笑った。
「適当だなあ」
でも、
そのページだけは消せなかった。
そこには、
まだ何者でもなかった自分がいた。
何になるのかも分からず、
ただ、
「なんか面白いことにならないかな」
と思っていた自分がいた。
男は後ろを振り返った。
そこには、
仕事も、
仲間も、
失敗も、
身体についた傷も、
作ったものも、
笑った夜も、
まだ名前のついていない次の挑戦もあった。
そして足元には、
あの日と同じ、
小さなカンジョー箱。
男は箱を拾った。
「さて」
箱を開ける。
「次は、何を入れようか」
遠くに、
また二つの扉が現れた。
どちらにも、
何も書かれていなかった。
男は少し笑って、
面白そうな方へ歩いていった。

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