朝、でっさんが起きると、
ベッドの下に階段があった。
昨日までは、なかったはずだ。
下から、自分の声が聞こえた。
「もう、どうでもいい」
最近、よく口にしていた言葉だった。
隣で、まるがメガネを直した。
「見に行く?」
「何がいるんだ?」
「君が、置いてきた気持ち」
でっさんは通帳を持ち、
暗い階段を下りた。
最初の部屋には、
巨大な標識になった、かんががいた。
身体に、赤い文字が次々と浮かぶ。
「怒るな」
「我慢しろ」
「お前が悪い」
その大きな身体が、
奥の扉をふさいでいた。
足元には、いかりがいる。
「そこを通してくれよ」
押しても、かんがは動かなかった。
でっさんが赤い文字に触れると、
昔の自分の声が聞こえた。
「これくらいで怒る俺が悪い」
誰かに嫌なことを言われた日だった。
本当は、言いたかった。
「そんな言い方、してほしくなかった」
でっさんは通帳に書いた。
嫌だった。俺も、怒っていた。
いかりが、顔を上げた。
「怒ってたって、認めてくれるのか?」
「うん。我慢できない俺が悪いって、決めつけてた」
かんがの赤い文字が止まった。
「怒らなければ、揉めずに済むと思っていた」
でっさんは、かんがを見上げた。
「でも、嫌だった気持ちまで消さなくていいだろ」
かんがは、足元のいかりを見た。
それから、ゆっくり横へ動いた。
奥の扉が見えた。

次の部屋では、雨が降っていた。
ばつが、背中を向けて座っていた。
足元の水に、古い思い出が映っている。
言えなかった言葉。
会えなくなった人。
平気なふりをして帰った夜。
「何してるんだ?」
「お前が見ないから、俺が見てた」
でっさんは、立ち止まった。
忘れたつもりでいたものばかりだった。
「もう済んだことだろ」
そう言いかけて、やめた。
ばつの横に座る。
「……あのとき、寂しかったな」
ばつが、少し振り向いた。
「やっと言った」
でっさんは、濡れた床を見た。
「何でもなかったことにして、ごめんな」
雨は、すぐにはやまなかった。
ばつも、立ち上がらなかった。
二人でしばらく、
同じ思い出を見ていた。

三つ目の部屋は、お祭りだった。
灯りが回り、
音楽が鳴り続けている。
大きな笑顔のお面が、
天井からでっさんをのぞいた。
「楽しいだろ?」
「笑えよ」
「止まるなよ」
でっさんも、つられて笑った。
けれど、少し疲れてきた。
音楽の隙間から、
小さな声が聞こえた。
「つまらないと思われたら、どうしよう」
お面の下に、たのしがいた。
笑顔を持ち上げる腕が、
震えていた。
でっさんは、お面の片側を支えた。
「ずっと笑ってなくても、俺はここにいるよ」
たのしが、でっさんを見た。
「静かでも?」
「うん。ちょっと座りたいし」
二人でお面を床に下ろした。
音楽が小さくなると、
でっさんのお腹が鳴った。
たのしが、ぽつりと言った。
「腹、減ったね」
今度は二人とも、
無理なく笑えた。

最後の部屋には、
もう一人のでっさんがいた。
色が薄く、
顔には何の表情もない。
「迎えに来た」
返事はなかった。
「何か言ってくれよ」
やはり、返事はない。
でっさんは困って、
まるを見た。
まるは急かさず、
入口で待っていた。
でっさんは、隣に座った。
何を言えばいいか、わからない。
だから、そのまま待った。
しばらくして、
隣の自分が口を開いた。
「何を感じても、面倒になるから」
でっさんは、顔を向けた。
「怒れば、自分を責める。
寂しければ、弱いと思う。
楽しくても、すぐ不安になる」
薄い色の手が、膝の上で動いた。
「何も感じなければ、楽かと思った」
でっさんは、通帳を開いた。
ここまで書いた気持ちを、
隣の自分にも見えるように置いた。
「今日は、少し聞いてこれた」
隣の自分は、黙ってページを見た。
やがて、小さな声がした。
「……俺、疲れてたんだ」
でっさんは、うなずいた。
「うん。少し休もう」

帰りの階段で、
でっさんは、まるに聞いた。
「最初は、みんなが俺を邪魔してると思った」
「今は?」
「俺が聞かなかった気持ちを、ずっと持ってたんだな」
まるは、うなずいた。
でっさんは、通帳を見た。
嫌だった。
寂しかった。
無理に笑っていた。
疲れていた。
どれも、格好のいい言葉ではない。
でも、読み返すと、
あの部屋の顔が浮かんだ。
「会いに行って、よかった」
最後に、一行書き足した。
今度は、こんなに大きくなる前に話そう。
部屋へ戻ると、
ベッドの下の階段は消えていた。
でっさんは、窓を開けた。
まだ、寂しさも疲れも残っていた。
でも、もう「どうでもいい」の一言で、
片づけたくはなかった。
「俺、いろいろ我慢してたんだな」
でっさんは、窓辺に座った。
今朝は、自分を急かさずにいようと思った。




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